Interview vol.04 【栗城史多】

独自のスタイル(単独無酸素)でエベレスト登頂に挑む栗城史多氏。そんなスタイルは登頂スタイルだけではなく、生き方そのものが独自のスタイルだ。彼の中には「こうしないといけない」と言った概念は無いという。そんな彼が山と出会ったきっかけや、世間に『栗城史多』が認知されるまでの経緯を聞いてきました。

−役所の書類や海外に行くときに職業を記入することがあると思うのですが、栗城さんは何て書くのですか?
栗城
海外のものは「FREE」って書いていますね。日本の書類には「自営業」って書いています。
−そこは「登山家」とは書かないんですね?
栗城
そうですね、僕はあんまり形にこだわることはしないです。自営業っていいじゃないですか自由な感じで。
−とは言え登山家としても活動しています。大学に入り山岳部に入ったきっかけみたいなものはあるのですか?
栗城
大学に入る前は山に全く興味もなかったですし行ったこともなかったのです。大学に入る前に付き合っていた彼女が山に登っている子で、一緒に登ったことはなかったのですが、山ってなんだろう?考えてみたら登ったこと無いなと思って山岳部に入ったのが最初のきっかけですね。
−山岳部に入って山に魅了されたんですか?
栗城
山岳部に入ったら先輩が非常に厳しい方で、とにかく下山が許されなかったんです。その考え方は今では危険な部分もあるんですけど、その先輩と二人で色々な雪山を登っているうちに、なにか自分の中で「出来ない」とか「無理だな」って思ってた事は、自分が作り出した幻想だと気付かされたんです。やっぱり自然から生きて帰ってくるには必死になるしかないんですよね。「やる」とか「やめる」じゃなくて、本当に頑張らないと生きて帰ってこられない体験を何回かさせて頂きました。そこからですね、こんなに生きるっていうことをもの凄くダイレクトに感じられる山に魅力を感じたのは。自然は「静」と「動」があるとおもうのですが、「静」の方は静かで心を落ち着かせられる。「動」の方は驚異的な躍動感があって、「静」の部分の魅力もあるのですが、「動」の部分の躍動感があるほうが大変だけど後々振り返ったときに、楽しかったなと思えるですよね。

−では、いまの栗城さんがあるのは、大学で山に出会えたからですね。
栗城
そうですね。山に出会ってなければ、何か別のことをやってたと思いますけど。僕が思うのは、目の前のことを一生懸命やっていたら、また次の道が見えてくると思います。あれこれうまくやろうと考えて、こうなったらいいなって理想を追っかけてしまいがちです。僕の場合は、ただ目の前に山があり、登り続けていたらこうなったという感じです。そっちの方が人生面白いのではないかと思っています。
−2004年にマッキンリーに単独登頂していますが、これは大学生の頃ですか?
栗城
大学3年生です。学生でも海外遠征は考えるのですが、だいたいヒマラヤとかに登頂する方が多いと思います。でも僕はマッキンリーを選びました。マッキンリーって独立峰で周りに高い山がない。しかも自分の荷物を全部ソリで引っ張って上げなければならない。他の山だとベースキャンプまでシェルパが荷物を運んだりすることもあるんですけど、マッキンリーは自分で全てやらなければならない。「コレだ」って当時思いました。僕はマッキンリーの山の形が好きだし、アラスカっていうだけで空気は綺麗そうだし(笑)そんな理由で登りました。
−その翌年には南米大陸最高峰アコンカグアに登りますよね。
栗城
もともと登るつもりはなかったのですが、たまたま地元の新聞記者に「マッキンリーの次は何処に登るんですか?」って聞かれて、「北米に登ったから、南米行ってみたい」って勢いで言ったら、新聞に『次はアコンカグアに行く』って書かれちゃって。そこから僕の中に火が着きました。その時に山を繋いでいくっていうのが僕の中で凄く大切なことだと思いました。一個登ってそこで終了だと寂しいですよね。山を繋いでいけば世界が見えるんじゃないかって思ったんです。七大陸の山を登っていけばそれに付随して世界を見ることができる。例えばアフリカのキリマンジャロ登ったらサバンナに寄って動物に会えるし、南極行ったらペンギンいるのかな?とか、世界を廻って地球を感じながら山に登ることをしてみたかった。だから「マッキンリーに登って次はヒマラヤだ」とかこういった山を登りたいではなく、山を繋いでいって地球を感じたいなって思っていました。

−大学を卒業するときに登山家として生きていこうって思いました?
栗城
そもそも「こうしないといけない」っていう概念がなくて、ごく自然と「そうなれる」って思ってました。でもそれは決して強いわけではなくて、子供の頃にNHKの『映像世紀』って番組が好きでよく観ていたんです。第二次世界大戦後の白黒映像の暗いドキュメンタリー番組なんですが、その映像を観ていて、昔の人達は夢や希望なんて持てなくて、食料も無い大変な時代があった。でも僕が大学を卒業する頃、日本で飢え死にすることはないし、インターネットなんかも出始めた頃でテクノロジーが大きく発展した時代です。そんな素晴らしい時代に生きているのだから、僕は自信を持たないといけないと感じ、大学を卒業したら会社員にならないといけないとか、正社員とか、登山家とか形にこだわることなく、生きていける素晴らしい時代だと思いました。だから僕の中でこれは自然な状態です。僕は寝袋があって山道具があればとりあえず生きていけます。プライドとか持っちゃうと出来なくなっちゃうけど、そういうのを持たないで自分が何をしたいかに特化していけば生きてはいけると思っていました。

-栗城さんがメディアで注目されるようになったのはいつ頃ですか?
栗城
2010年にNHKで取材を受けました。でもNHKだから広まったってことはないです。2009年にエベレストで初めて生中継をして以降、徐々にという感じです。2007年から講演活動などもやっていて、それで少しずつ輪が広がって応援してくれる人が増え、スポンサーを紹介してくれたりして頂きました。その後、NHKがこの子、面白いって特番にして頂いた感じです。
−注目された方が資金を集めやすかったりしないですか?
栗城
そんなことはないですね。今応援して頂いているスポンサーさんはほとんどが口コミなんです。もちろん番組に出演したら認知されるかもしれないですが、それによってフォロワー数が増えることはあまりないですね。どちらかというと活動そのものが口コミで広がった感じです。
−自分から企業に出向いていって支援を要請することはあるんですか?
栗城
ものすごいします。メディアが付いてスポンサーが付くのではなく、僕は何も無くても「支援してくれませんか」って企業に行きますよ。そういった活動をずっとやってました。今までにないことをしようっていう起業家さんや、ゼロからイチを共感してくれる社長さんは多いです。ただ、社長にたどり着くまでは長い(笑)。受付の人に断られ、広報に断られ、どんどん断られ続けるけど通い詰めました。僕はプレゼンもうまくないし、そもそも何も無いですからね。ただ山に行きますってだけ、企業から「あなたを支援するメリットは?」って聞かれて「何もありません」と答えてましたから。でも、企業の受付の方が「へぇ」って言いながら話を聞いてくれたんです。嬉しかったです。だから、この「へぇ」を繋いでいけば何かチャンスに当たるのではないかと思って、「へぇ」の数をどれだけ増やせるかと思ってやってました。
−では最後に今年もエベレストに挑戦しますが、今回は季節が違いますよね。
栗城
そうですね。いままでは秋に登っていて、季節的にとても厳しい時期でした。エベレストで一番雪が多いのはモンスーン(雨期)の夏、風が強いのが冬、その中間が秋です。そして一番登りやすいのは春なんです。しかし春だけは避けてました。人が多すぎて山を感じながら登山が出来ないのが理由です。それで秋の時期を狙って今まで登ったんです。しかし、昨年は雪が多すぎて、腰まである雪をかき分けて登っていきましたが、7400mのところで下山を決めました。自然はどんなに準備してきましたと言っても通じない世界。思い通りに行かない。こうやって登山を続けていると、自分の出来る範囲って分かってくるんです。去年もベースキャンプから双眼鏡で山を確認するのですが、その時点で相当厳しいなって思いました。僕は絶対帰らないタイプで粘るんですけど、登る前に登れない決断をしたくなかったので、今年は雪のない時期の春を選択しました。前回までと大きな違いはそこですね。
なりたい自分になれないと思うのは、あらゆる理由をつけ自分自身でブレーキをかけてしまっているのかもしれない。我々は普段の生活の中で、無意識に物事を諦めたり妥協したりすることがある。しかし、栗城氏は、「目の前に山があり、登り続けたら今の自分があった」と言うように目の前のことを、全力でこなすことで、なりたい自分に近づけるのではないか。このインタビューで、そんな力強い言葉をいただきました。
このインタビューは栗城氏が日本を発つ3日前に受けて頂きました。準備で忙しい中、本当にありがとうございました。今回のエベレスト登頂も生中継される予定です。挑戦を一緒に見届けましょう。
NOBUKAZU KURIKI