【百人一首:ワカコ訳】風にまつわる風情な和歌編

はじめに。

 

ワカコ訳は、本来の現代訳にわたしなりの解釈やストーリーを織り交ぜたものです。和歌は、短いことばの中に、季節や風景や心情などを含み、様々な想いや伏線がこめられていると考えています。現代訳にとどめてしまっては勿体ない。私たちがもっともっと想像を膨らませて読むべきだと思うのです。皆さんなりの解釈やストーリーを、想像するきっかけになればと思って書きました。

 

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『天つ風 雲のかよひ路 吹きとぢよ 乙女の姿 しばしとどめむ』

 

ワカコ訳:空に吹く風よ。雲の中にあるという、遥か高くの天の世界に通じる道とやらを、吹いて閉ざしてはくれないか。天に帰っていってしまうあの天女たちの美しい姿を、もうしばらく、ここにとどめておきたいのだ。

 

わたし、この和歌、すっごく好きなんです。何が良いって、コレ、端から想像なんですよ。でもその光景が、しっかり目に浮かんできませんか?人の想像の上にさらにその想像を重ねることもできれば、この和歌はどんな景色から想像して詠んだ歌なんだろうって考えることも出来ます。妄想家にとっては魅力的な歌です。

 

 

 

『山川に 風のかけたる しがらみは 流れもあへぬ 紅葉なりけり』

 

ワカコ訳:山の間の谷川に、紅葉がところどころにかたまっている光景を目にした。それはなんとも美しく、風の粋ないたずらと思った。まれにそのかたまりから、紅葉がすくっと起き上がり、一枚、また一枚と流れ行くゆくさまもまた、美しいのだろうな。

 

風を人に例えて詠んだこの和歌は、わたしが比喩や擬人化に夢中になったきっかけのひとつでもあります。想像を膨らませるこの和歌に、本来どんな意図があったのか。また、その意図を超える想像をはしらせることがすごく刺激的です。こういうことをにやけながら考えている時、わたしって変態だなって思います。でもそれが楽しいのです。

 

 

 

『来ぬ人を まつほの浦の 夕なぎに 焼くや藻塩の 身もこがれつつ』

 

ワカコ訳:いくら待てども来ない彼を海辺で待っているけれど、なんだか今日は来ない気がするのだ。これではまるで、夕凪どきの松帆の浦で焼かれる藻塩となんら変わりはない。だってこの光景を何度繰り返し見たことだろう。ほら、また、波が寄せる。

 

本来の現代訳はただただ切ないけど、わたしはこの和歌には、皮肉が隠れていると思っています。ちょっぴり皮肉でふてくされている少女が浮かびます。藻塩は、何度も何度も海草に海水をかけ、その後それを焼いて溶かして煮詰めて出来上がります。ちなみに訳では、何度もかける海水と、繰り返し寄せる波をかけてみました。このあとも少女は、皮肉混じりに彼を待ち続けていたのでしょうね。

 

 

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百人一首って奥が深いし、意外と共感できるんですよ!昔の人だって、私たちと同じような感覚で、毎日を過ごしていたことがわかりますよね。違うのは、心とことばの豊かさですかね。日本語ってすごいなって思うし、大事に、そして上手に使わなきゃって思います。魅力的な日本語の使い方を、コレを機に意識してみてはいかがですか?